第8回 川瀬巴水 学芸員コラム
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更新日:2022年3月1日
戦後の作品と交流(1)
版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第8回は戦後の活動にスポットをあて、東京の風景を主題とした作品と多岐にわたる交流の一端を紹介します。
描きたい風景の喪失
川瀬巴水「春の夕(上野東照宮)」昭和23年作
戦後もしばらくは栃木県の塩原に滞在していた巴水ですが、昭和23(1948)年3月31日に東京へと帰還します。転居先は巴水が苦心して建てた馬込の洋館づくりの家ではなく、洗足池のそば近く洗足流れに面する大田区上池上町1127番(現大田区上池台二丁目33番付近)に建つ渡邊庄三郎の家作でした。
巴水は入新井町に住み始めた頃の昭和2 年12 月、洗足池の風景を写生し(写生帖第20 号)、翌年「千束池」の題で作品化したのを始めとして(作品画像は第2回「川瀬巴水 学芸員コラム」参照)、戦前からしばしば池畔には訪れています。そういった地の利のある場所であってみれば、東京での再出発に支障はなかったものと想像されます。
遠方への写生旅行も再開し、その地に取材した作品が次々と出版される一方で、彼が再び生活を始めた東京の風景を主題とした作品は、「春の夕(上野東照宮)」(昭和23年作)を始め、わずか11点にとどまります。戦前、巴水は精力的に東京の風景を描き、90点ほどの作品を世に送り出していますが、戦後の復興に向けて動き出した東京の姿は、すでに巴水が描きたかった風景ではなくなっていたのかもしれません。昭和29年の日記には、「湯島天神 神田明神 写生地さがし 日本橋迄都電…」(5月17日)とあり、写生場所を探し求め、所在なく歩く姿が彷彿されます。
東京を題材とした戦後の作品
巴水にとって身近で見慣れた洗足池畔の風景は昭和26 年に再び作品化されます(「洗足池の残雪」昭和26年作〔作品画像は第2回「川瀬巴水 学芸員コラム」参照〕)。本作の画面左手に見える建物は池の北端に浮かぶ弁天島の洗足池弁財天(厳島神社)、中央奥に車が走る道は中原街道です。本作のスケッチは、写生帖第73 号に記載されたメモから昭和26 年2 月18 日と確定できます。その3 日前の15 日の日記には「夕べからふり出した雪 夜は大風―大雪ふる 七時ごろ雪やみ天気になる 十数年来の大雪の為交通とだへ」とあり、東京は移動も困難となる大雪に見舞われていますから、本作はこの大雪の後の情景を写し取ったものということになるでしょう。
写生帖第73号 洗足池残雪(昭和26年2月18日)
「洗足池の残雪」の摺り上がりを確認する巴水(右)と摺師・斧銀太郎(昭和27年4月29日)
この作品を始め、他3 点の作品が戦災から復興した東京の姿を映すべく、「新東京風景版画」としてまとめられることが『版画界』創刊号(渡邊版画店、1952 年)に告知されています。これに含まれたのは「明治神宮菖蒲園」(昭和26年作)、「桜田門の春雨」(同27年作)、「大手門之春之夕暮」(同年作)でした。描かれているのは、かつて巴水が好んで描いた何気ない東京の日常風景ではなく、皇居周辺と東京の名所という誰もが知る風景だったのです。
日記によれば、昭和27年4 月19 日に桜田門と大手門へ向かい、「桜田門の春雨」と「大手門之春之夕暮」の写生を行っています。その2 日後の4 月21 日、「午前店へ 山百合のカットをかきとゞける 此日小雨 桜田門の雨を見に行に行きしが雨やみしかば 店だけでかへり 松坂屋に ゆき彦 青そん、古けいの三人展を見る」とあり、再度桜田門へ赴きました。どうやら雨の中の情景を確かめようとしていたようです。門の外には和服ではなく、洋服を来た人物が描かれており、画中には、世相に合わせた服装の変化も見られるようになっています。
地方へと目が向けられるなか、巴水が最後に描いた東京の姿はこれまで度々描いてきた大田区の池上本門寺でした(「池上の雪」昭和31年作)。江戸時代から人々の信仰を集めた古刹の変わらない姿に安堵し、筆をとったのかもしれません。
川瀬巴水「桜田門の春雨」昭和27年作
川瀬巴水「池上の雪」昭和31年作
無形文化財技術保存記録木版画「増上寺之雪」
川瀬巴水「増上寺之雪」昭和28年作
戦後、東京の風景を描いた作品のひとつ「増上寺之雪」(昭和28年作)は、文部省が無形文化財に指定された木版画の伝統技術を保存するための事業の一つとして取り組んだもので、伊東深水の美人画「髪」とともに制作されました。昭和27年8月20日、文部省にて打ち合わせ会を開催し、翌年1月からスケッチが行われ制作を本格的に開始します。完成品が発表されたのは昭和28年9月のことでした。下絵や版木、順序摺などの関連資料は、現在東京国立博物館に収蔵されています。
巴水は仕事を引き受けるにあたって、画題とする風景の選択に悩みます。その様子が巴水の日記に綴られています。「午後二時うちを出て れん岸島 箱崎なぞこんだの文部省無形文化財の版画の為の写生に行きしが場所気に入らずむなしく帰宅」(昭和28年1月24日)や「朝より出かけ増上寺を見て(中略)もふ一度れいがん橋までいって見しが きのふやゝこゝなればと思ひしところ やはり写生出来ず 新川辺を河岸のあるところを二三物色なせしが 思わしからず 今日もむなしく帰宅」(同年1月25日)など、作品の題材に増上寺を選定するまでに東京の街を歩き、描く場所が決定するまでに苦悩する姿がみえます。最終的には、「朝二度増上寺へ行き 山門を写生 ひる帰宅 うすぐもりの日にて写生計どらずこまりしがとにかくまとめて雪景色にする事になす」(昭和28年年1月26日)とあり、『東京二十景』の第一作目であり人気作「芝増上寺」(大正14〔1925〕年作)と同じ三門を描くことに決めました(作品画像は第7回「川瀬巴水 学芸員コラム」参照)。江戸情緒の残る「芝増上寺」と比較すると、本作品には明治37(1904)年に敷設された路面電車の電線や電車を待つ洋装の女性が描かれ、近代的な側面を作品の中に反映しています。なお、写生帖には三門の全体図の他に作中の着物姿と洋装の女性のスケッチが残されています。これは妻子をモデルにしたとされ、自宅でポーズをとったというエピソードが伝わります。
写生帖第78号 昭和28年1月26日
写生帖第78号 昭和28年1月28日
在京旧郷土会会員会の開催
巴水を含む鏑木清方の門下は郷土会(会員同士の芸術生活の郷土であることを意味した名称)を結成し、大正4(1915)年以降、昭和6年まで作品の展覧会開催を通じて相互に交流を深めていました。巴水は郷土会の面々とは戦後も変わらず交流を続けましたが、日記は昭和29 年から同30 年にかけて3 度にわたり在京旧郷土会会員会が開かれたことを伝えています。
初回の会合は巴水宅で行われましたが、開催のきっかけは昭和29年11 月10 日の日記に「夕方西田君〔来脱〕り 先生の御祝ひに付会合をうちでしたしとの事」とあり、後の経緯からすると、清方宅の新築祝いを話し合うのが会合の目的でした。そして、同月18 日に「朝西田君訪問(かねて話ありし)いよいようちで在京同門の集りを廿四日五時にひらく事になり かへりて 門井、鳥居、榎本、千嶋 笠松君へ往復はがきを出す」と伝えられており、22 日には「午後西田君来る 廿四日のあつまりの十八日に出せる往復はがきの返事来る 皆こらるゝ由」と続いています。24 日の会合には巴水の他、西田青坡・榎本千花俊の妻女(榎本自身は風邪により不参加)・笠松紫浪・門井掬水・千島華洋・鳥居言人が出席し、親睦が深められています。日記には話し合いの内容は記されていないものの、後の記事を見ると、清方に灯篭を贈ったようです。
日記 昭和29年11月22日
日記 昭和29年11月24日
次いで第2 回の会合は、昭和30 年4 月3 日に鳥居宅で行われました。この時は千島が欠席でしたが、残りの会員は全員参加しています。この場で如何なる内容が語られたのかを遺憾にして日記は語りません。3 回目の会は西田宅に鳥居・門井・笠松・千島・西田・巴水の6 人が集り、「静岡県の美人画展らん会(来年の三月)をやるかやらないか」(昭和30 年11 月12 日)を話し合ったといいます。この他、昭和29 年4 月14 日には清方の喜寿を祝って、一同がちゃんちゃんこの裏に絵を描き、これを清方に贈ったことが日記に見えるなど、門人同志の付き合いもさることながら、彼等が師である清方に寄せる敬愛の情もまた不変であったことがうかがい知れます。
作品などの画像の二次利用や無断転載は固く禁じます。作品については大田区立郷土博物館までお問合せください。
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