第7回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年3月1日

東京を描く(2)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第7回は第6回に引き続き巴水の生まれ故郷である東京の風景を主題とした作品をご紹介します。

関東大震災後の東京を描いた『東京二十景』

 大正14(1925)年から昭和5(1930)年にかけて制作された『東京二十景』は、関東大震災後の東京を描いています。しかし、一口に「東京」といっても、震災を免れた近代建築たる「新大橋」や急速に復興に向けて動き出した街の光が灯る「神田明神境内」を含む一方で、港区芝公園にある増上寺の前を着物姿の女性が歩く情景を描いた江戸情緒の残る「芝増上寺」や田園風景の夜景を切り取った「馬込の月」などもあり、実に様々です。
 写生帖第7号には『東京二十景』の制作に関わる写生候補地と思しい地名・建物名称が列記されています。「新東京十景」として、芝増上寺・深川・芝浦・浅草・上野・銀座・二重橋・佃・歌舞伎座・弁慶橋・九段・御茶ノ水・新橋・両国・新大橋が記され、別のページにも亀井戸・江戸川・柳橋・浜町河岸・向島・日本橋などが書き連ねられているのです。震災後、巴水が東京の風景を写生しようとした時、街は急速に復興を遂げつつあり、木造建築群から鉄筋コンクリートの街へと変貌しつつありました。上記候補地から連作に含まれたのは結果的に数点にとどまり、他に皇居周辺や郊外の風景が追加されています。なかでも、郊外の作品は大田区域の風景がその中心です。これには、巴水が昭和 2年 11 月頃に入新井町新井宿子母澤(現大田区中央四丁目)へ、さらに同 5 年 4 月頃には、そこからほど近い馬込町平張(現大田区南馬込三丁目)に洋館づくりの家を新築して移り住んだことが起因していると考えられます。


川瀬巴水「新大橋」大正15年作


川瀬巴水「神田明神境内」大正15年作

 なお、この連作に含まれる「芝増上寺」と「馬込の月」は巴水作品の中でも指折りの人気作品です。赤い建築物と白い雪景色の対比が美しい前者は「増上寺パターン」といわれ、以後「浅草の雨の朝」(昭和5年9月作)や「根津権現の雪」など類似の作品が多数制作されています。増上寺は、巴水が生まれた家からも近く、震災で罹災した際に逃げ込んだともいわれる場所です。濃い青色が印象的な後者は「巴水ブルー」の代表作と目されるもので、かつて馬込の地にあった三本松を描いています。松は、江戸時代に馬込村の人々が伊勢参宮に向かった際、持ち帰って植えたと伝えられるもので、「お伊勢の松」として親しまれていましたが、今その姿を見ることはできません。現在「三本松」の名称は交番や東急バスの停留所名として名を残すのみです。


川瀬巴水「芝増上寺」大正14年作


川瀬巴水「根津権現の雪」昭和8年作

 この他、本連作には、横殴りの雪が吹きすさぶ神田川と街並みを描いた「御茶の水」、沈みゆく太陽を遠景としてのどかな田園と松並木のなかを一日の畑仕事を終えた農夫が歩く姿を描いた「池上市之倉(夕陽)」(昭和3年作)、安政7(1860)年に水戸・薩摩両藩の浪士が時の大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」の現場として著名な「桜田門」などの作品があります。


川瀬巴水「御茶の水」大正15年


川瀬巴水「桜田門」昭和3年作

渡邊版以外との仕事

 巴水は関東大震災後から戦前まで、特に昭和 4 年から同 7 年頃にかけて、渡邊庄三郎以外の版元からも仕事を受けています。これにはいくつかの理由があります。第一に、震災前より人気絵師であった巴水は、新興の版元たちにとって確実に売れる作品を生み出す絵師であったこと。第二に、庄三郎とは特に専属契約を結んでいるわけではなかったため、他の版元とも自由に仕事ができたこと。そして、第三に転居問題が挙げられます。巴水は昭和 2 年 11 月頃に大田区域内の貸家に転入し、同 5 年 4 月頃馬込に家を新築しました。この時に経済的困窮が生じたとされ、庄三郎以外の版元からも仕事を引き受けたとされます。しかし、個々の版元の個性が明確ではなく、渡邊版で売れ筋であった構図や色合いなどに類似した作品が制作されました。


「荒川の月(赤羽)」昭和4年作 渡邊版


「五月雨(荒川)」昭和7年6月作 土井版

 後年、巴水は昭和31年3月10日の日記に「土井さんから版画をかいてくれぬかとのはがき来る 目下金ずまりでかきたいと思へど 店のおもわくもあり如何せんと思ひまどふ」と記しています。経済的な点から仕事を引き受けたかったようですが、庄三郎と専属契約を結んでいなかったとはいえ、戦後はほとんど庄三郎のもと以外から版画を出版することはありませんでした。

未完に終わった『新東京百景』

 昭和11年より出版を開始した『新東京百景』は、6図のみの制作となり未完のまま終了しました。明治時代に架けられた弁慶橋や活気に満ちた市場など、新旧の東京の姿が描かれています。昭和11年2月2日の日記によると、巴水は「大東京百景」の画料と印税について庄三郎と協定し、同年4月11日には「東京風景選集」の写生を本格的に始めるために資金の借り入れの承諾を得たようです。そして、早速翌日の12日に池上、14日に大門・弁慶橋・井之頭、15日に芝浦方面へと写生に向かうなど精力的に東京の街を歩く様子が日記に記録されています。
 「中央市場」は、作中に描かれた建物の屋根の形から昭和 10年に築地へ開設されたばかりの中央卸売市場を描いたものと推測されます。日記には、何度か中央卸売市場へ写生に向かう巴水の動向が綴られており、「今朝早く渡辺さんへ行き 規さんと魚河岸へ行くところ ね棒していけず」(昭和 11 年 4 月 24 日)、「魚河岸へ行く 松嶌の栄さんの案内で―写生」(同年 4 月 27 日)、「早朝魚河岸写生」(同年 5 月 2 日)と度々足を運びました。早朝の活気ある市場の雰囲気が伝わる作品です。


川瀬巴水「弁慶橋之春雨」昭和11年4月写


川瀬巴水「中央市場」昭和11年5月写

 意欲的に東京の姿を写していた巴水ですが、6作目となる「仮題/日比谷公園の春」(昭和11年5月写)の摺り合わせが8月19日に終了してからは、本連作の制作が途切れます。これ以降の日記には、 版元と画家の立場についての衝突や制作上の不満について吐露した記述が見出されます。昭和11年9月27日の日記には「渡辺さんへ行き若主人と今後の製作上の要求を話し午後主人にぶつかり いよいよ多年の製作上のうつぷんをもらし 話主人にわかりて 本かく的に東京風〔景脱〕選集の刊行する事に取きめる」と見えます。この記述からはこの頃、版元・渡邊庄三郎と作品制作の上で何らかの衝突があったと認められますが、前日には「渡辺さんへより 作家をみとめよとの話に行きしが 主人ねていて話出来ず」とも記されています。版元と絵師(作家)との関係に不満を募らせていたことを吐露するものとして注目すべき記事といえます。

料亭「一平荘」の版画制作

 一平荘は、かつて神楽坂・池之端・両国に所在した料亭のことで、『昭和東都 著名料亭百景』は食味研究家で月刊誌『たべある記:月刊食味評論』を主宰した多田鉄之助(1896-1984年)の依頼で出版されました。本作品の余白部分(マージン)に「板元 多田鉄之助」とあるのが、その証拠といえます。ただし、昭和15年の日記によって制作過程を追っていくと、例えば9月21日に「午前 渡辺さんへ行き加藤に行く 両国一平荘色ざし」、また10月14日にも「一平荘(両国)すり合せに加藤さんへ行く」と見えており、実際の版画制作を担当したのが版元の加藤潤二であった可能性が示唆されています。
 本作品は巴水ならではの濃い色使いと手慣れた構図で仕上げられており、料亭を紹介する絵葉書的効果を狙って制作されたと考えられています。8月16日の日記には「加藤さんところにて多田さんと云ふ方に初対面 料亭版画着手にきまる」とあり、この日に料亭版画の制作が決まりました。以降、複数回にわたり両国や池之端の一平荘の下見に出かけ、原画を描いています。しかし、9月 5 日には「午後一平荘原〔画〕を食味くらぶへとゞける(中略)今日のは落せん」とあり、これまでに描いた原画は一度取りやめになったようです。翌日より両国一平荘の新たな原画を描き始め、同月11 日には制作の承諾が取れ画料も受け取っています。

  後の日記には、神楽坂や池之端の制作についても記されています。前者は9 月14・15 日に写生、9 月18・19 日に原画制作、10 月10 日に画料の受領と、順調に制作が進められ、出版に至ったようです。しかし、後者は、9 月 22 日に写生して原画を描き始め、24 日に多田へ原画を届けたにも関わらず、26日の日記に「絵まだきまらず むなしくかへる」と見えています。その後も記述がないため、後者は作品化されなかった可能性が高いといえます。
 これらの作品制作の過程からは、依頼人の意向に沿いながら、真面目に版画制作に取り組む巴水の姿を垣間見ることができるでしょう。
 なお、『昭和東都 著名料亭百景』は、版画家の石渡庄一郎(1897-1987年)も手掛けており、日本橋濱町の醍醐、芝虎の門の曙荘、小石川の富士菜館、上野の明月園などを描いた作品が知られています。8月 24 日に巴水が多田と両国一平荘へ出向いた際には、石渡も同行しており、石渡へも同じ頃に制作依頼があり、上記料亭の版画を制作したものと推測できます。

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