第2回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年3月1日

大田区域への転入、その暮らしと風景

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第2回は長く生活を営んだ大田区域での住まいと、この地の風景を画題とした作品についてご紹介します。 

入新井の住まい 

 川瀬巴水は、処女作『塩原三部作』の制作から始まる約40年におよぶ画業人生のうち、27年間程を大田区域内で過ごしたことが知られています。大田区域内ではまず東京府荏原郡入新井町新井宿子母沢984番(現大田区中央四丁目13番付近)に転居しました。その場所は巴水の父・庄兵衛が巴水の生家の向こう隣にあった寿屋商店(宮内省御用達のモール糸使用製品を扱う店)の専属職人という関係から知り合った同店番頭・多田友一の家作です。そこが空いていたので越してきたといわれています。
 写生帖第13号には各所に「戸棚」や「物干」などの記載が見える2階建てと思しき建物の間取りが描き取られています。脇には「佐伯博士邸山の下 新井さんのうら 子母沢九八四 多田友一氏」 と添え書きされていますから、この間取りこそ巴水の居住した入新井町新井宿子母沢の家のものであったと確定できます。「佐伯博士」は佐伯栄養専門学校を開設した佐伯矩のことで、彼は現在佐伯山緑地のある大田区中央五丁目30番の地に邸宅を構えていました。巴水はこの山下に住んでいたのです。

入新井への転居時期

 では、転居の時期はいつ頃だったのでしょうか。従来、入新井への転居は大正15(1926)年11月と指摘されてきました。しかし、当館所蔵の巴水宛葉書に記された住居表示に照らしてみるに、それは誤りであり、この年月は浅草区茅町二丁目12番に移転した年月と考えるべきです。同所での暮らしは葉書の住居表示および消印によると、少なくとも昭和2(1927)年 7月26日までは続いていました。一方、入新井町新井宿子母沢の住所が記載された葉書は昭和3年7月19日付消印のものを上限とします。葉書の消印による限り巴水は昭和2年7月以降、同3年7月までの間に入新井に転居したことになります。
 写生帖第20号には昭和2年12月11日のこととして「朝七時ごろ大森を出で 横浜にて電車を東京駅七時半の急行にのりかへ(中略)名古屋に三時十二分着」の書き出しで始まる旅行記事が見えます。大森駅を起点として名古屋に出掛けている点より推して、当時すでに入新井に居住していたことは確実といえるのではないでしょうか。浅草区茅町には「約一ヶ年ほど住んだ」(楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」渡邊規編『川瀬巴水木版画集』 〔毎日新聞社、1979年〕192ページ)といわれていますから、これが正しいとすれば、巴水は昭和2年11月頃に入新井町新井宿子母沢へ移り住んだと推測することが可能です。


写生帖第20号


大森駅構内 昭和12年

馬込への転居と暮らし

 この頃の巴水は版元・渡邊庄三郎以外に酒井川口合版の版画制作も請けています。これは自分の持ち家を建てるに際して竣工に手間取り、出費がかさんだことによるようです。その新居は荏原郡馬込町平張975番(現大田区南馬込三丁目17番付近)に建てられました。各地を転々とし、なかなか住所の定まらなかった巴水にとって、妻の梅代と初めて落ち着いた生活を送ることができたのが馬込の新居であったといえるのではないでしょうか。家の新築もあって経済的には必ずしも豊かであったとはいえないようですが、それでも巴水にとって馬込時代は「一番面白い時代」(楢崎前掲「川瀬巴水 版画とその生涯」192ページ)であったといわれています。馬込には昭和5年4月頃に転居し、栃木県の塩原に同19年8月に疎開するまで居住しました。


馬込の自宅でくつろぐ巴水


馬込の家

描かれた大田区域の風景

 巴水が生まれ過ごした東京は、また風景版画の題材として作品制作の源泉ともなりました。描かれた風景は「絵になる風景」としての名所、神社仏閣、近代建築はもちろんのこと、何気ない日常の一コマなど様々であり、全作品のなかでも最も多く、100点以上におよんでいます。しかし、こと大田区域の風景にあっては江戸・明治の景観あるいは風情を彷彿とさせる風景が画題として好んで描かれたようです。入新井へと転居した翌月に早速写生帖に描き留められたのは江戸時代以来の景観を維持しつつ、時代を経ても変わらない名所・洗足池の風景でした。以降、巴水は大田区域の風景を複数作品化しましたが、「千束池」や深い青を基調とした人気作「馬込の月」を含む5図は当時出版が始まっていた『東京二十景』に収められています。このシリーズでは東京の各所が描かれていますが、郊外を描いた作品は巴水が暮らした大田区域内の風景が中心となっていました。


川瀬巴水「千束池」 昭和3年作


川瀬巴水「馬込の月」 昭和5年作

移り変わる風景と写生

 巴水が転居した昭和初期の大田区域では、宅地の造成や工場の進出による市街地化が進み、近代都市にふさわしいインフラの整備が充実しつつありました。いま我々が目にする町並みの原型がつくられたのが、まさにこの頃だったといえます。東京市域の外側にあった郡部のうち、荏原郡下にあった大田区域内の町々では大正5年より土地所有者が組合を結成して耕地整理や土地区画整理と呼ばれる土地整理事業に着手し、積極的に宅地や工場を誘致しました。この宅地造成や工場用地化が都心部より流入した新住民の宅地需要や新天地を模索する工場の受け皿となり、市街地化が進んだのです。こうした人口流入と開発の結果、明治・大正半ば頃まで緩やかに変化しつつも維持されていた農漁村の風景は日々失われていきました。巴水が転入した当時の大田区域は、このような変化の途上にあったのです。
 そうしたなかにあって、昭和5年に巴水が居を構えた馬込町は、武蔵野台地の東南端に位置する丘陵地帯にあり、同43年に都営浅草線が開業するまでは鉄道駅からも離れ、比較的遅くまで農村の雰囲気を残していたといわれています。巴水が馬込町を新生活の場所に選んだ理由は明確ではありませんが、あるいはこの農村的風情を好んだものかもしれません。いずれにしても、巴水は大田区域内の市街地風景には関心を示さず、そうした町並みを写生帖に描き留め、版画にすることはほとんどありませんでした。彼が描き続けた風景は作品化されたか否かに関わらず、失われつつあった江戸・明治の景観や風情を色濃く残す風景でした。


川瀬巴水「池上市之倉(夕陽)」 昭和3年作


昭和10年代の馬込風景

大田区を描いた戦後の作品

 戦後大田区上池上町に居を定めてからも、その姿勢に変化はなかったようです。栃木県の塩原から東京へと戻り、大田区上池上町1127番(現大田区上池台二丁目33番付近)にあった渡邊庄三郎の家作に入ったのは昭和23年3月31日であり、巴水は亡くなるまで同所を拠点として作品制作に打ち込みました。「東京引越さわぎ以来 始めて仕事をやり出した」と日記に見えるのは昭和23年6月8日のことです。帰還後、遠方への写生旅行を再開し、早速4月には九州・中国・四国・関西地方を周遊しています。塩原への疎開中、東京へ上京したり茨城や東北方面へ小旅行も行ったりしていましたが、遠方への写生旅行は久方ぶりでした。それゆえ、創作意欲も高まり収穫の多い旅であったようで、その成果は渡邊版単独作品へと次々と昇華されます。その一方で、戦災や戦後復興のなかで巴水の好んだ大田区の風景はほとんど喪失されてしまったようです。戦後、巴水が作品化した大田区の風景は洗足池と池上本門寺のみにとどまっています。


川瀬巴水「洗足池の残雪」 昭和26年作


川瀬巴水「池上本門寺之塔」 昭和29年作

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