第1回 川瀬巴水 学芸員コラム
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更新日:2022年3月31日
川瀬巴水と塩原(前編)
版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第1回は巴水と縁の深い栃木県塩原に取材した作品をご紹介します。本題に入る前に、今回が初回ですので、まずは巴水の略歴に触れておきましょう。
川瀬巴水の略歴
肘をつく川瀬巴水
鏑木清方に入門
川瀬巴水(本名、文治郎)は明治16(1883)年5月18日、東京市芝区露月町(現港区新橋五丁目)に糸組物職人(販売と製造を兼ねた職商人)の長男として生まれました。幼い頃より絵に興味を持ち画家を志しますが、親戚の反対もあり一時は諦めます。しかし、父親の事業の失敗により妹夫婦に家業が託され、巴水には画の道がひらけることになります。
明治41年、25歳頃のときにかねてから顔なじみであった日本画家・鏑木清方の門をたたきますが、年齢を理由に断られてしまいます。そして清方から洋画を勧められたことから白馬会葵橋洋画研究所へ通い、洋画家の岡田三郎助らから洋画を学びます。ここでは後の版業を支える写生の技術を得ますが、洋画にはなじむことができず、明治43年に再度清方へ入門を申し出て、許されることになります。2年ほどのちに清方から与えられた「巴水」という号は、小学校が鞆小学校だったことと川瀬の川にちなんで付けられたといいますが、実際に入学したのは桜川小学校であり、清方の思い違いであったというエピソードが残されています。
清方のもとで日本画の作品を巽画会に出品する一方、大正2(1913)年頃からは銀座白牡丹に勤め、広告図案や櫛、かんざし、帯留などの図案を描く仕事に従事します。大正6年12月、芝の吉川文七の娘・ムメ(ウメ。明治31年8月17日生まれ。後年体調を崩した際、伊東深水の夫人・好子の勧めで「梅代」に改名)と結婚、愛宕下町の家で生活を始めます。
版画絵師としての出発
大正7年、同門である伊東深水の版画作品『近江八景』を見て版画の制作に興味を持ちます。同じ年の秋に処女作『塩原三部作』を発表し、ここから版元・渡邊庄三郎とともに新版画の制作を始めることとなります。『塩原三部作』が好評を得て以降、庄三郎との関係を密にして順調に版画制作に打ち込んでいましたが、大正12年9月の関東大震災で家財や写生帖を失ってしまいます。失意の中、庄三郎に励まされて生涯最長となる写生旅行に出掛けた巴水は、再び版画制作に取り組んでいきます。その作品は日本全国を旅した風景を写したもので、伊東深水からは「旅情詩人」と呼ばれ生涯で約600点をこえる詩情豊かな作品を残しました。
巴水は旅好きとして知られますが、その傍らにはいつも写生帖がありました。洋画を学んだ時に写生の基本を身に付けたとされますが、師匠である清方もこの時に写生力を養ったことで木版画の制作に影響を与えたと認めています。巴水自身も「版画を作るようになってからは、版画としての出来上りを予想して、一木一草も除けなくてよいところを選んで写生するようになった。そのうち見る風景が版画に見えるようになって来た」(楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」渡邊規編『川瀬巴水木版画集』〔毎日新聞社、1979年〕172ページ)と語っています。スケッチは主に鉛筆で描かれていますが、なかには彩色されたものもあり完成度の高いスケッチが数多く見受けられます。
大田区域内へは昭和2(1927)年11月頃に荏原郡入新井町(現大田区中央四丁目)に転居し、同5年4月頃に同じ荏原郡の馬込町(現大田区南馬込三丁目)に居を構えました。戦中の一時期、栃木県塩原に疎開しましたが、昭和23 年4月以降は大田区上池上町(現大田区上池台二丁目)で過ごし、同32年11月27日に74年の生涯を終えます。
昭和8年10月には日本美術協会第93回美術展覧会に「冨士川(冨士川の夕)」を出品し、銅賞牌を受賞。また、昭和27年に文部省文化財保護委員会による無形文化財技術保存記録事業の対象に指名され、翌年9月に「増上寺之雪」を完成させました。
青年期の巴水
前述したように巴水は渡邊庄三郎と版画制作に取り掛かる以前、挿絵の図案制作により収入を得ていた時期があったといわれていますが、仕事の実際について詳細は明らかではありません。当館には、明治時代末に巴水が京橋区木挽町五丁目(現中央区銀座六丁目)在住の矢矧寸香に宛てて出した葉書が収蔵されています。宛先の矢矧寸香については住所表記により木挽町五丁目の鈴木菓子舗(餅菓子屋)に居候していたこと、彼の紹介により巴水が銀座白牡丹に務め画家として初めて収入を得たことが知られます。
これらの葉書は、関連資料の少ない青年期の巴水の動向を伝えるものとして重要である上、裏面に軽妙洒脱な挿絵が添えられている点も貴重です。葉書の挿絵は鏑木清方門下となる明治43年頃の作画を伝えるもので、図案家としても巧みな資質を備えていたであろうことをうかがわせる、いわば作品と評価することができます。
明治42年7月2日
明治43年9月3日
左の絵葉書は、初めての遠方旅行となる奥羽旅行の帰途、栃木(那須)滞在中に出されたものです。挿絵は那須周辺では当時馬車が交通手段のひとつであったことを示唆しています。右の絵葉書には「ずいぶん/思いきつて古い/はがきを/よこしたもの/だね/さて御たずねの/本業の絵の儀 近ごろ御かげ/様に御天気がよろしいので/毎日こゝをせんどと勉強/致し居候」とあります。明治43年は鏑木清方に入門を許された年であり、「本業の絵の儀」という文言からは、本格的に画家の道を歩み始める前後の気概を感じさせます。
版画制作の出発点・塩原
巴水は体の弱かった幼い頃、伯父の垣本貞次郎・伯母のなつが住む栃木県の塩原で過ごしました。自身の作品解説にて「塩原は私を非常に可愛がつて呉れました、亡き伯父夫婦が丗余年の永い生活をして居りました為め、ちひさい頃から自然行く機会が多く、従つていろいろと思ひ出も深く懐かしい故郷のやうに思はれます。板画の第一歩に此の塩原を選びましたのは、私として頗る意義ある事と存ぜられます」(『川瀬巴水創作板画解説』渡邊版画店、大正 10年。以下同書から引用する場合は、『創作板画解説』と略記する)とあるように、いかに塩原という地に巴水が心を寄せていたかがわかります。
また、右下にあげた写真は大正後期に塩原で行われた大正天皇の天長節(天皇誕生日)を祝う祭礼の一場面で、左から3番目に写るのが巴水です。大正天皇は皇太子時代から塩原へ静養に訪れており、大正天皇の即位の大礼が行われた際、福渡・塩釜・畑下・門前・古町の 5 地区で人形を乗せた山車を作って盛大に祝いました。以後、即位記念の祭礼形式を塩原の秋祭りとして残し、現在まで続けられています。畑下より下流にあたる福渡の和泉屋・松屋前で撮影されたものと推測され、福渡の人々が着るのは、温泉旅館・満寿家の揃いの法被です。東京に居住していても塩原の祭礼に参加するなど、塩原との結びつきをみることができます。
塩原福渡にて 明治時代末頃 最前列左から2番目が巴水、その右隣が伯母・なつ。昭和11年3月11日の日記の記述によれば、知人から垣本家の店先で写した古写真の複写が届いたとされます。
天長節を祝う塩原の祭礼 大正時代後期
巴水が新版画の制作を始めた時、渡邊庄三郎から版画にするための下絵を描くことを勧められました。この時、伯母のなつを訪ねて塩原に赴き、箒川が流れる渓流沿いを毎日歩いて写生を重ねたとされます。
三部作の中の1点、「塩原 しほがま」には、古びた建物と川で洗い物をする農婦、のんびり湯につかる男性など、自然の中で営まれる日々の生活が描き込まれています。塩原を知る巴水らしい視点で描かれた作品といえ、風景や人物が美化されることなく表現されています。また、ゴマ摺り(ザラ摺りとも。摺りの道具であるバレンを使って筋目を付ける技法)が多用され、新しい版画表現に挑戦した渡邊版作品の特徴も感じ取れます。
なお、垣本なつは、大正 9 年 1 月 27 日に塩原で没しました。33 回忌を迎えた昭和 27(1952)年 1 月 27 日、巴水は、なつが好きだった芋をそなえたという記述を日記に残しています。
川瀬巴水「塩原しほがま」大正7年
塩釜 令和2年撮影
『塩原三部作』を出版後、続けて長絵判の 5 作品が制作されました。塩原の高原を描いた「塩原 あら湯路」がその中に含まれます。新湯温泉の古町から新湯へ行く道の塙坂を上った所にこのような高原があったとされ、黄金色に色付いた草原と、青くそびえる山脈の色の対比で、秋の一場面を表現しています。
「しほ原 あら湯の秋」『旅みやげ第一集』は、大正 9年の晩秋、塩原に滞在した巴水が新湯温泉を訪れた際、その風景を切りとったものと推測されます。画面左端の建物は「湯宿の朝(塩原 新湯)」にも描かれた温泉旅館・下藤屋です。『創作板画解説』には「此のあら湯は、夏のうちこそ地方客などで可なり賑はひますが、秋は誠に淋しいのです、それだけ山家の温泉場らしい趣が豊かなので、私は其の点に興味を有ちます。藍色の遠山と紅葉の色鮮やかな近い山とを挟んだ両側の薄黒いヒツソリした宿屋、其の対照が面白いと思ひまして、秋深い山のいで湯の静けさを描きました」と記しています。塩原を知る巴水にとっては、静けさの中にある温泉場こそが日常であり、興味をひかれる場所だったのです。
川瀬巴水「塩原 あら湯路」大正8年
川瀬巴水「しほ原 あら湯の秋」大正9年秋
巴水が幼少の頃より親しんだ塩原には、豊かな自然と親交を深めた人々がいました。新版画という新しい分野に挑戦することを決意した時、塩原を処女作の題材に選んだのは故無きことでありません。そして疎開中はもちろんのこと、戦後に至っても度々塩原を訪れています。巴水にとって第二の故郷といえる塩原を描いた作品には、温泉地としての一面だけではなく塩原の日常が色濃く反映されています。「川瀬巴水と塩原(後編)」では、戦中・戦後の塩原での疎開生活や人々との交流、そして作品制作についてご紹介します。
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