第13回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年4月28日

旅先を描く(4)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第13回は第12回に引き続き旅好きであった巴水が訪れた旅先の風景を主題とした単独作品をご紹介します。 

東京尚美堂との仕事

 東京尚美堂は、田中良三が明治30(1897)年に「絵画出版業尚美堂画局」を興したのを始まりとします。浮世絵の他、石版絵草紙・絵葉書・クリスマスカード・グリーティングカードなどの制作・販売を行っていました。制作された作品の特徴は、例えば「日光 陽明門」に見える門の意匠のように細部まで描かれている曖昧さのない筆致である点が挙げられます。また、写生帖の階段部分には石段の段数を表すとみられる「12」という数字が見えます(写生帖第26号)。作品に描かれた石段も12 段を数え、その写実性が伝わります。


川瀬巴水「日光陽明門」昭和5年4月作


写生帖第26号

 巴水は昭和 4(1929)年 8 月に日光を訪れ、陽明門や法華堂・神橋・中禅寺湖・杉並木の各地を写生して歩きました。先に紹介した「日光 陽明門」もこのスケッチ旅行の中から生まれた一作品です。渡邊版「日光街道」(昭和5年作)と東京尚美堂版「日光 杉並木」(昭和5年4月作)は同じ写生帖をもとにしており、前者は昼間を、後者は夜の情景を描いています。同じ場所を題材とした作品でも、版元が違うことで異なる印象を与える作品を残しています。日光杉並木街道は、日光街道・例幣使街道・会津西街道の3 つの街道に渡る全長約 37キロメートルの杉並木です。徳川家三代に仕えた家臣・松平正綱が 20 年余りの歳月をかけて杉を植樹し、家康の33回忌の折、日光東照宮の参道並木として寄進しました。現在、特別史跡及び特別天然記念物の二重指定を受けています。


川瀬巴水「日光街道」昭和5年作


川瀬巴水「日光 杉並木」昭和5年4月作

渡邊版と芳壽堂版

 このように巴水は同時期に違う版元との作品制作を行っていました。関東大震災後から戦前まで、特に昭和4年から同7年頃にかけて、渡邊版以外の版元との仕事を受けています。これには、いくつかの理由が指摘されています。第一に、震災前より人気絵師であった巴水は、新興の版元たちにとって確実に売れる作品を生み出す絵師であったこと。第二に、庄三郎とは特に専属契約を結んでいたわけではなかったため、他の版元とも自由に仕事ができたこと。第三に、転居問題が挙げられます。巴水は、昭和5 年4 月頃馬込に初めて自分の持ち家を新築しました。この時に経済的困窮が生じたとされ、渡邊版以外の版元からも仕事を引き受けたといいます。そのため、近接地の写生を行い、複数の作品を出版したのです。しかし、個々の版元の個性が明確ではなく、結局渡邊版で売れ筋であった構図や色合いなどに類似した作品が制作されました。以下に紹介するのは、いずれも渡邊版と芳壽堂版を対比させたもので、その姉妹作的な巴水の制作姿勢が看取されるものです。芳壽堂の作品は輸出用に制作されたものである上、制作数も100枚と限られていたため、日本国内で目にすることは稀といわれています。
 渡邊版「浦安之残雪」と芳壽堂版「雪の夜(浦安)」(いずれも昭和7年3月作)は昭和7年2月26日のスケッチに基づき制作された可能性の高い作品です(写生帖第34号)。両者とも海苔養殖に関わる漁村風景を雪景色として仕上げていますが、前日の2月25日は同地に確かに雪が降っていたことが知られます。また、芳壽堂版「岩うつ浪(房州 黒生)」(昭和6年11月作)は昭和6年11月10日のスケッチにより制作されたと判断できる作品です。この日は渡邊版「犬吠之朝」(昭和6年11月作)のスケッチも行っており(写生帖第33号)、両者の主題はやはり「波」で一致します。


川瀬巴水「浦安之残雪」昭和7年3月作


川瀬巴水「雪の夜(浦安)」昭和7年3月作


川瀬巴水「岩うつ浪(房州 黒生)」昭和6年11月作


写生帖第33号 黒生(昭和6年11月10日)


川瀬巴水「犬吠之朝」昭和6年11月作


写生帖第33号 犬吠(昭和6年11月10日)

様々な富士

 古来より多くの人々を惹きつけて止まない日本の最高峰・富士。自然が生み出したその造形美に魅了された芸術家は数知れず、富士ほど描き続けられた山はないといっても過言ではありません。
 巴水も生涯で富士を50作品ほど描いています。富士を多く描いた理由としては巴水自身の好みもあったといわれていますが、新版画の生みの親である版元・渡邊庄三郎の意向も大きかったのではないかと推測されます。巴水をはじめとして、橋口五葉や伊東深水、さらには外国人絵師たちが描いた新版画は、海外への輸出を視野に入れており、外国人に受ける古き良い日本の風景を反映した作品の制作が求められていました。その点、富士はその画題として最適であったといえるでしょう。戦時中、富士を題材とした数多の作品が制作されたこともまた「輝かしい日本の象徴」としての役目を負わされたがゆえであり、巴水も手慣れた富士をモチーフに広義の戦争画を描いています。この点はすでに第2回「川瀬巴水 学芸員コラム」にて詳しく触れましたので、ご関心の方にはそちらをご覧いただくとして、ここでは巴水が描いたその他の富士をいくつか紹介します。
 巴水は、大判の作品「冨士川の夕」において日本美術協会第93 回美術展覧会の銅賞牌を得ました。本展は昭和8年11月1日から20日まで、上野公園内の美術展示館(現上野の森美術館)にて開催されたもので、展覧会の報告書には銅賞牌の受賞作として「冨士川の夕」が並び、出品者・渡邊庄三郎、製作者・川瀬巴水の名が記されています(『日本美術協会報告』第31輯、1934年)。
 『木版画目録』(渡邊版画店、1935 年)の作品目録には、「富士川(昼の分)」と「富士川(夕映の分)」が掲載されていることから、富士川を描いた作品には昼と夕映えの情景の2パターンが存在したことがわかります。本作のもととなった写生帖に目を転じると、「冨士川 二月二十日(午後六時)」と日時の記載があり、富士山の頂上は薄紅色で色付けされています(写生帖第39号)。「冨士川」には、複数枚の試摺が現存しており、青空を背景に富士の頂上部が同じく薄紅色で摺られた作品も確認できます。写生帖に記された時間帯と、彩色の状態から判断するに、頂上部が薄紅色の作品が「富士川(夕映の分)」であるといえるでしょう。よって、背景色が薄い黄色の本作は「富士川(昼の分)」と推断されます。試摺を繰り返し、昼と夕映えの2作品が出来上がったところで、夕映えの作品を展覧会に出品。展覧会で褒状を受けたのは、目録に掲載された「富士川(夕映の分)」と考えるのが穏当です。


川瀬巴水「冨士川」昭和8年2月20日写


写生帖第39号 冨士川(昭和8年2月20日)

 昭和12年6月版行の「西伊豆 木負」は静岡県沼津市西浦木負付近から富士を望んだ風景を描いた作品です。手前に桜を配し、遠景に富士を見る構図は江戸時代の浮世絵にも通じるものがあります。富士と桜という普遍的かつ象徴的なモチーフはやはり海外の購入客を意識したものであり、本作は現在も指折りの人気作品となっています。本作品は、昭和12年3 月に下田から沼津へ向かったスケッチ旅行の中から生まれました(写生帖第52号)。この位置から富士を描く以前に、同じく伊豆半島の北西に位置する大瀬崎を回り、江梨港や大瀬岬から富士を写生しています(写生帖第52 号)。当時、巴水はスランプに陥っていたといわれており、違う題材であっても同じような構図の作品が多いと批判されていました。様々な角度から富士を描くことで、作品制作にとっての最善の写生場所を探していたのかもしれません。


写生帖第52号 西浦 木負(昭和12年3月23日)


写生帖第52号 西伊豆 大瀬岬(朝)(昭和12年3月23日)

 渡邊版「山中湖の暁」(昭和6年8月写)と芳壽堂版「冨士ハ暮るゝ(河口湖)」(昭和6年9月作)は、同日の昭和6年8月21日、朝は山中湖から、夕方は河口湖から富士を写生しています(写生帖第32号)。縦版と横版で構図に違いはあるものの、両作ともに雄大な富士の姿を写し取ったものです。交通手段は定かではありませんが、山中湖と河口湖の距離は約17キロメートルという道のりです。それぞれの版元から作品を出版するためにも効率よく写生を行う巴水の姿が想像されます。

 


川瀬巴水「山中湖の暁」昭和6年8月写


写生帖第32号 山中湖畔(昭和6年8月21日朝)


川瀬巴水「冨士ハ暮るゝ(河口湖)」昭和6年9月作


写生帖第32号 河口湖の夕(昭和6年8月21日)

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