第6回 川瀬巴水 学芸員コラム
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更新日:2022年3月1日
東京を描く(1)
版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第6回は巴水の生まれ故郷である東京の風景を主題とした作品をご紹介します。
大田区域を描いた最初期の作品
日本全国を旅した巴水ですが、生まれ故郷である東京の風景を主題とした作品は100点以上に及び、全作品の中で一番多い画題となっています。大正7(1918)年に出版された『塩原三部作』が好評を得た後、続けて長絵判の風景版画を5点にわたり制作しました。「塩原 あら湯路」「伊香保の夏」「仙台評定河原」、それに現在の大田区内を描いた「暮れ行く古川堤」と「曇り日の矢口」(いずれも大正8年作)がこれにあたります。
大田区内の多摩川べりに取材した2点は東京を描いた最初期の作品に数えられますが、巴水は未だ区域内には居住していません。なぜこの地を題材に選んだのかは不明ですが、 ただ「静かな水辺の風景は版画にも適するし私も好きだ」(川瀬巴水「巴水藝談」『浮世絵と版画』第1巻第2号、1949年)という巴水にとって、鈍色の空におおわれた多摩川下流域は彼好みの版画に適した風景だったのかもしれません。
静寂の多摩川下流域
『川瀬巴水創作板画解説』大正10年
「暮れ行く古川堤」は、大田区西六郷二丁目に所在する安養寺(古川薬師)付近の土手から、川崎方面を遠景として多摩川を見下す構図をとっており、「淡墨を流したやうな空からは、今にもポツリポツリ雨が降つて来さうです」(『川瀬巴水創作板画解説』渡邊版画店、大正10年。以下同書から引用する場合は、『創作板画解説』と明記する)。安養寺は、江戸時代、諸病の治癒や産後の母子安全の利益が広まり、風光明媚な多摩川の風景もあいまって多くの参詣客を集めました。
六郷地区内の村々と対岸の川崎では、寛政・享和年間(1789~1804)を始まりとして梨の栽培が盛んとなり、やや遅れて桃の栽培も開始されます。これらの果樹栽培は農家の副業として主に多摩川沿岸の河川敷で行われましたが、明治 40(1907)年代を最盛期として関東大震災後から昭和初期にかけて姿を消していきました。多摩川の度重なる氾濫と高潮が影響したとされ、大正 7年に始まった河川改修工事も衰退の原因となりました。
作品が制作された頃は、徐々に多摩川沿いの風景が変わり始めた時期と考えられます。しかし、巴水はゆったりとした時間の流れのなかで未だ開発の手が及んでいない河川敷の情景をこの作品のなかに描き込みました。また、本作品には初期の渡邊版に特徴的に見られる太い彫線や線に影を出す表現技法が用いられています。
川瀬巴水「暮れ行く古川堤」大正8年初夏
砂利船のある多摩川の風景
「曇り日の矢口」は、古来より矢口の渡し場として著名な場所の「空は低く、遠くは藍色にうちかすんで、露を含んでシツトリした草原は、まるでビロードの様に滑らか」(『創作板画解説』)な風景を、奥行きが強調された構図と、落ち着いた色調で描いています。川べりで男性たちが操作するのは、人馬が往来するための渡し船ではなく、砂利運搬用の川船です。底が浅く幅が広い作りで、作中にはその特徴が忠実に描かれています。江戸時代、現在の大田区から上流にかけて砂利採掘が始まり、明治時代以降は東京や横浜の市街地形成のために多摩川で採掘された砂利が使用されました。
巴水は昭和3(1928)年にも「曇り日の矢口」と同様、矢口の渡し場付近を描いた作品「矢口」(『東京二十景』)を出版しています。作品中、川岸で手入れされているのは砂利採掘用の船です。作品が描かれた昭和初期には採掘地点はすでに上流へと広がっており、手前の池は砂利取り跡とみられます。
川瀬巴水「曇り日の矢口」大正8年初夏
川瀬巴水「矢口」昭和3年作
東京の日常を綴る『東京十二題』
『東京十二題』は、『旅みやげ第一集』とほぼ同時期の大正8年に制作が始まり、東京の日常を知る巴水によって東京の各所が12図描かれました。巴水自身が作品解説をしている『創作板画解説』では、「見馴れ過ぎたせいか、いつでも書けるといふ油断か、どうも私は東京を見る感じが鈍いやうであります、が併し一度ここぞと思ひますと、生れた時から住んで居る所だけに、何か自分のものと云ふ様な不思議な力が出て、思ふままに写生の出来るのが常です」と記し、続けて東京の名所を選んだわけではなく、興のおもむくままに筆をおろしたと綴ります。この言葉から、誰もが知り得ている場所ではなく東京の日常を知る巴水だからこそ描けた作品群であることがわかります。
また、この連作は「駒形河岸」「深川上の橋」「品川沖」をはじめとして、12図のうち9図が海辺や川辺の風景を描いており、水辺の風景を好んだという巴水の好みが反映されているともいえます。
川瀬巴水「深川上の橋」大正9年夏
川瀬巴水「品川沖」大正9年夏
実験的な試み『東京十二ヶ月』
『東京十二題』で好評を得た巴水は、これに続けて東京の風景を描きます。『東京十二ヶ月』は大正9年から翌年10月にかけての写生をもとに出版されました。当初は1年をかけて東京の風景を描く予定でしたが、写生旅行による中断もあり制作は遅れ最終的には5図のみの制作で終わります。巴水の作品のなかでは珍しい丸型や正方形の判型を使用したり、マージン(作品の周りにある余白)に制作年月日を刷り込んだりするなど、よりその場に立った情景の再現を試みており実験的な取り組みをしていると考えられます。
「三十間堀の暮雪」(大正9年12月作)では、建物の屋根などにふんわりと積る雪を表現するため、板面を砥石やたわしなどで擦り完成させたと伝わり、版画の制作工程でも通常とは違う技法がとられていました。さらに、本作には巴水と版元の渡邊庄三郎が銀座の三十間堀川沿いを共に歩いていた時に巴水が写生を始め、その間庄三郎が傘を差し続けていたというエピソードが残っています。また、巴水は戦前の作品の中で自らが好む作品の一つとして本作を挙げています。
「麻布二の橋の午後」は、古川に架かる二之橋から下流に向かって描かれています。江戸時代、毛利日向守の屋敷があったことから二之橋は「日向橋」と呼ばれることもありました。現在は橋の上を首都高速道路が走り、巴水が描いた当時の面影を感じることはできません。しかし、本作に限らず移り変わる東京の姿を描きとめた巴水の作品は、巴水が生きた時代、そしてその当時の景観を今に伝えている点で貴重です。
川瀬巴水「三十間堀の暮雪」大正9年12月7日
川瀬巴水「麻布二の橋の午後」大正10年3月
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