第3回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム

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更新日:2022年8月28日

科学少年から考古少年へ(後編)

 このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。

教科書への疑問、人類学との出会い

あわや退学!? 教科書事件
 東京府立第八中学校(現、都立小山台高校)へと進学した西岡は、父と同じエンジニアへの道を漠然と志望し、3年生の時には科学模型研究会(会員33名)を創立して、会長となります。『西岡秀雄集』(1971 大門出版)末尾の年譜によると、西岡は会誌『The Science』に「ダンス人形」「電気短銃」「明るい家」「自動信号機」等を次々と執筆しています。これらは父俊雄に倣い、電化製品の原理を紹介した小文とみられます。
 一方で、好奇心が強く、科学的な考え方を重んじる科学少年の性格から、西岡は日本史教科書の原始・古代部分の内容に疑問を抱くようになり、これが、人生の転機となる大事件を招きます。その経緯を、後年の西岡の講演「古墳と私」(1993 『大田区立郷土博物館紀要』第3号所収)などをもとに、再現してみましょう。


西岡が実際に使った教科書


原始古代部分は、神話に基づく記述から始まる

 まず『日本書紀』に出てくる初期の天皇が長寿であることに興味を持った西岡は、各天皇の寿命を方眼紙の目盛りに落として比較し、仁徳天皇以前の天皇の多くが100歳を超える不自然な長寿で、代々の天皇に仕えた武内宿祢(たけのうちのすくね)という人物が、300歳を超えてしまうという事実に気づきます。
 西岡が歴史の教員にこのことを質問に行くと、教員は「大昔は食べ物がよかったからだ」と答えます。そこで「仁徳天皇より後には、食べ物が悪くなった証拠があるのですか」と食い下がったところ、返事に窮した教員から、頭ごなしに叱責されてしまいます。
 西岡はあきらめず、大学教授なら答えを知っているはずと思い、近所に住む教授宅を飛び入りで訪ねます。この教授は東京帝国大学の脇水鉄五郎で、地質学、土壌学の権威でしたが、歴史の専門家ではありませんでした。脇水は西岡少年を応接室に招き、紅茶を出すなどして親切に応対しつつ、時間を稼いで答えを考えます。結局脇水は、歌舞伎役者の襲名と同じように、武内宿祢を名乗る何代もの人物がいたのだという説明を試みました。かなり苦しい機転でしたが、襲名という説の突飛さに虚を突かれた西岡は、思わず納得してしまいます。一方脇水にとっても、巻物状の長大な方眼紙を手に、熱心に説明する西岡少年の姿は強い印象をのこしたようで、西岡の初期の研究活動には、脇水の支援の形跡が随所に見られます。
 しかし、西岡の疑問はこれでは収まりませんでした。中学4~5年生の頃、『古事記』『日本書紀』で天照大神の子孫が天皇とされる以上、天照大神にも夫がいたはずだと考えた西岡は、またも歴史の教員に質問に行き、「天照大神のハズバンド(夫)は誰ですか」と尋ねます。
 天皇制の問題と性の問題という、二つのタブーに臆面もなく踏み込んだ西岡に、教員は「お前、ませている!」と激怒しました。さらに、西岡が危険思想を持っているのではないかと疑った教員たちの間で騒ぎが大きくなり、ついには両親が学校に呼び出され、退学もありうる大問題に発展します。
 しかし、着任したばかりの若き生物の教員、岸谷貞次郎が、西岡の質問は純粋な好奇心によるもので、悪意はないとして校長を説得し、西岡は退学を免れました。

人生を変えた一冊
 西岡を個人指導することになった岸谷貞次郎は、当時刊行されたばかりの『人類学汎論』(西村眞次著 1929 東京堂)という書物を貸し、毎週一章ずつ読んで質問に来るよう命じます。西岡の一連の好奇心を満たすのは、人類全般について、その発生・変化の経緯を、文献史料だけでなく、考古学や医学・生物学の面から総合的に解き明かす、人類学であることを見抜いたのです。岸谷は、当時教職のかたわら、大学でイカの発光に関する博士論文をまとめる一方、『趣味旅行』(1925 敬文館)という小中学生向きの地理、歴史の読み物も著すなど、多才な人物でした。
 はたして岸谷の目論見通り、西岡は『人類学汎論』にのめり込みます。この書物は、欧米の研究動向を踏まえ、人類学の様々なテーマを平易にまとめたもので、遺跡や人骨などの写真、図版を豊富に収めた優れた概説書でした。西岡は476ページから成るこの大著の重厚感に、学問というものに触れる喜びを実感して魅了され、人類学・考古学の世界に目覚めたのです。
 昭和4(1929)年を最後に、西岡の科学模型研究会での執筆活動はなくなり、昭和5(1930)年には中学の『校友会雑誌』に、『人類学汎論』の影響を濃厚に受けたとみられる論文「人類の発祥と移動」を発表します。
 田園調布での考古学的調査を開始したのもこの頃です。やがて西岡は、洞穴研究や穴掘りを好み、骨を集める変わった中学生として地元でも知られるようになり、近所の人は、横穴墓(古墳時代後~終末期に、斜面地を横方向に掘って作られたお墓。田園調布地区を含め、大田区内に多数分布する。)を偶然掘りあてるなどして人骨が出土した際には、お寺に奉納するとお布施がかかることもあって、西岡のところに持ってくるようになったそうです。
 こうして、科学少年は考古少年へと急激な変貌を遂げたのでした。

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