第7回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム
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更新日:2023年8月20日
広がる世界、深まる知識 1
このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。
慶應義塾大学での学び
生涯の師との出会い
昭和8(1933)年3月、西岡秀雄は慶應義塾大学予科を受験します。筆記試験は24、25日、面接試験は29日でした。筆記は順調だったのか、第3回コラム掲載の西岡22号墳の図面は、1日目の試験の後に清書したものとみられます。
間崎万里(1888-1964) 昭和11(1936)年撮影
しかし面接試験では、面接官から厳しい追及を受けます。第一希望が文学部なのに第二希望が医学部とは、どういうつもりなのかというのです。後年西岡は講演「古墳と私」(1993 『大田区立郷土博物館紀要』第3号)で、そのやりとりを回顧しています。
西岡は面接官に考古学、人類学への志を率直に述べ、文学部で大山柏の史前学の講義を受けるのが一番の希望だが、もしだめでも医学部なら古人骨に触れる機会があると考えた、と説明します。面接官は、それほど考古学が好きならブレステッド(アメリカのエジプト史学者)の『古代文化史』を読んだことがあるか、と尋ねます。西岡は、あると答えます。英語の原書を読んだのか、と畳みかける面接官に、西岡は原書と日本語訳の両方を読んだと答えます。面接官は少し驚いた様子で、今度は訳の感想を尋ねます。西岡は、読みやすい翻訳だが専門用語に数ヶ所誤訳があり、翻訳者は英語がとても上手いが考古学の専門ではないと見受けられると述べ、具体的な箇所をいくつか列挙します。面接官は「フーン」といいながら聞いていました。結局西岡は試験を突破し、4月、慶應義塾大学予科に入学を果たします。
実はこの面接官こそ『古代文化史』(昭和8(1933)年4月 刀江書院 刊行年月日前に販売が開始されたとみられます)を翻訳した西洋史学者、間崎万里(まざきまさと)その人でした。間崎はイギリス近代政治史が専門でしたが、ヨーロッパ留学中にパリで考古学に触れて強い関心を抱き、西洋古代史も講じていました(松本信広1964「間崎万里教授を悼む」『史学』第37薪第3号 三田史学会)。この時の西岡は間崎の顔を知る由もありませんでしたが、間崎は西岡の情熱と実力を認めます。晩年間崎は、自身の祝賀会の席で西岡を指し「こいつはおれの口頭試問のときに 訳したての本にケチつけやがった」と笑ったといいます。浪人時代の西岡の、猛烈な読書経験が生きたのです。こののち間崎は、西岡ら学生を率いて慶応大文学部史学科に考古学の研究組織を確立するため尽力します。
松本信広(1897-1981) 昭和12(1937)撮影
柴田常恵(1877-1954) 昭和12(1937)年撮影
清水潤三(1916-1988) 昭和12(1937)年撮影
当時の学事日程は、予科3年間の後、本科3年間で卒業でした。西岡はここで多くの師や友人と出会います。
民俗学者、神話学者の松本信広は東南アジアの民族学を講じ、後の回でご紹介する通り発掘調査や民族調査を通じて西岡の生涯に大きな影響を与えます。
考古学者、柴田常恵(しばたじょうえ)は元内務省地理課(後に文部省保存課)の史蹟考査官として遺跡調査の経験豊富な人物で、退官後、講師として大山柏と一年交替で考古学を講じ、慶応大の考古学研究の草分けとなりました。西岡には、川崎市影向寺(ようごうじ)周辺での柴田の調査に随行した際のエピソードがあります。地蔵の拓本(たくほん)の採取を思い立った柴田から水をもらってくるよう命じられ、西岡が近隣の農家に「水ありませんか?」と尋ねたところ、温厚な柴田が突然「ばかもの、アフリカの砂漠の中で仕事してんじゃねえんだ」と叱責します。「人の住んでるところには必ず水があるんだ。なぜ水をいただけませんかと言わねえんだ。そんな不注意なことで学問できるか。」(1994「座談会 大田区の遺跡を語る」『史誌』39号 大田区史編さん室)。後年西岡は柴田を「面白い先生」だったと回顧しています。
同期には、後に考古学者となって慶応大の民族学考古学研究室を率いる清水潤三がおり、共に慶応大による数々の発掘調査に従事したほか、上調布会の田園調布の遺跡見学会やさいたま市真福寺貝塚の遺物採集に同行するなど、親交がありました。
慶応大予科時代の西岡がとった、解剖学受講ノート
さらに面接試験での経緯が医学部にも伝えられ、解剖学者、望月周三郎の講義の聴講を許されます。西岡がとった解剖学のノートには、人体各部位の精緻な図面が多数記されています。解剖実習ではのこぎりの扱いが上手く「お前、医学部に残れ」と言われたほどで、レントゲン撮影機器の操作も行ったといいます(前掲「古墳と私」)。
なお念願の大山柏の講義を受けたのは、本科進学後の昭和11(1936)年と考えられます。昭和11年度の教科書とみられる『基礎史前学講義』下巻(1936 大山史前学研究所)には多数の書き込みがある一方、昭和9年度の教科書とみられる1932年刊の上巻には、ほぼ書き込みがみられないからです。史前学と西岡秀雄については、後の回で詳しくご紹介します。
柳田國男(1875-1962) 成城大学民俗学研究所所蔵 昭和5(1930)年頃撮影
西岡秀雄、柳田國男に会う!
予科時代、西岡の生涯に大きな影響を与えたできごとの一つに民俗学者、柳田國男との出会いがあります。柳田が慶應大で講演を行ったときのことです。西岡は後年の講演「あすを考えるミュージアム」(2000『大田区立郷土博物館紀要』第10号)で当時のことを語っています。
講演後の質疑応答の際、西岡は、柳田の著作の中で話題が男女の性の問題に及ぶと、筆がとまってしまうのはなぜか、というきわどい質問を試みます。当時学生が直接質問することは許されず、事前に主任教授から許可を得る必要があったのですが、主任教授(哲学者、川合貞一)も「そりゃ面白い、ぜひ聞いてみろ」とたきつけます。
質問を受けた柳田は「あなたよく いい質問をしてくださった」と満面の笑みを浮かべます。そして「いま一番世の中で悪いのは、新聞記者と大学の先生なんだ」と語り始めます。現在自分が研究する民俗学という学問分野は、「大学の先生」の世界つまり学界では学問として認められず、道楽のように思われている。そんな時に男女の性というセンセーショナルな事柄を民俗学の主題に掲げれば、「新聞記者」つまりジャーナリズムが面白がって誇張して伝え、民俗学はいかがわしいというイメージを「世の中」に広めてしまう。すると「大学の先生」は一層萎縮して民俗学を敬遠し、学問の確立が遠のいてしまう。だから悔しいけれども深入りは避けている、というのです。
西岡は講演の内容や日時を語りませんが、西岡在学中柳田が慶應大で行った講演は、昭和8(1933)年11月4日午後1時半から大講堂で行われた社会経済史学会第三回大会での「食物の変遷」、昭和11(1936)年10月16日午後3時から図書館記念室で行われた慶應義塾経済史学会での「運搬技術の変遷」です(『定本柳田國男集 年譜』)。後者は日吉矢上古墳の発掘調査の2日目にあたり、日没まで作業が行われ聴講は難しかったはずです。後で述べる講演内容からも、本エピソードは昭和8年のことで間違いありません。それは柳田が独自の民俗学を確立する、重要な節目の時期にあたります。
柳田は若い頃から日本列島の農山漁村の歴史に関心を持ち、各地の言い伝え、生活習慣や生活用具、村の聖地(塚や森)の様相などの幅広い知見を手がかりに、村をめぐる様々な人々の生活と、その背景にある心の中の世界の移り変わりを研究してきました。それは人類学に通じるものでしたが、文献史学、国文学さらには経済学ともつながる独自の学問でした。1920年前後、日本の人類学界では、出土人骨の計測や現代人の身体検査で得られた数値から日本列島の人類の系譜に迫る、自然科学系の「体質人類学」が台頭します。柳田は、自身の研究に近い人文系の人類学が置き去りにされている状況を憂い、これを「体質人類学」と並ぶ科学へと高める模索を始めます。柳田は欧米を歴訪し、各国の「人類学」、「民族学」、「民俗学」(と日本語訳される学問分野)の研究、教育の場を見聞して、学問の体系や学術機関の構成など多くを学びます。同時に欧米の「文化人類学」、「民族学」は、研究者が主に植民地などの先住民のところへ行き、自分たちとは違う文化を外側から観察する点に限界があると感じます。そして対象と同じ文化の中で育ち、感覚を共有する研究者が、立ち居振る舞いや心の中の次元にまで踏み込んで、文化を内側から観察することに基礎を置いた、人類学の新しい分野を構想します。柳田はこの分野をあらためて「民俗学」と定義し、将来国際的な「世界民俗学」を創る第一歩として、まずフィールドを「日本文化」の分布圏とほぼ重なる日本国内(植民地を除く)に絞った「一国民俗学」を提唱します(佐藤健二2015『柳田国男の歴史社会学』せりか書房)。この「一国民俗学」の立ち上げ宣言となったのが、昭和9(1934)年8月刊行の『民間伝承論』(共立社書店)です。昭和8(1933)年11月はその完成直前にあたり、「大学の先生」や「新聞記者」を警戒する発言からは、新しい学問を世に認めさせたい切迫した心境が伝わってきます。西岡の回顧は、「一国民俗学」創立期の、柳田のなまの言葉を拾った、貴重な証言といえます。
講演のテーマとなった2種類の杵(きね) (イメージ) 上:竪杵 下:横杵
ところで西岡はなぜこんな質問を思いついたのでしょうか。それは講演のテーマが、調理に関する性別分業だったことに関係します。講演を論文化した「餅と臼と擂鉢」(1934『社会経済史学』第3巻第9号 社会経済史学会)によると、その概略は次のようなものでした。
まず、料理には日常(「ケの日」)のものと、祭りなどの特別な日(「ハレの日」)のものがあり、後者の中心には酒や、穀物を臼と竪杵(たてぎね)などで粉にして火を通した「モチ」「シトギ」と呼ばれる団子状の食品がありました。大昔、手間がかかり特殊な技術も必要な「ハレの日」の食物の調理は、女性の重要な仕事でした。しかしモチ米を横杵(よこぎね)で搗(つ)いてモチを作る方法が伝来すると、モチの製造は、竪杵よりも重い横杵を振るう男性主導の仕事になります。他方、擂鉢(すりばち)や石臼の登場で製粉作業が容易になり、団子状食品が「ケの日」の食物へと降格します。こうして「ハレの日」の食物の調理に占める女性の役割が、小さくなっていきました。
以上の説の背景には、さらに大きな仮説があります。その詳細は「聟入考」(1929『三宅博士古稀祝賀記念論文集』岡書院)に、次のようにまとめられています。
大昔、男女は対等で、各々役割を分担して家族共同体を運営していました。食物の調理は女性側の領分で、特に「ハレの日」の酒や団子状食品の製造と分配を担うことは、女性の社会的地位を高めている要因の一つでした。同じ屋内空間で同じ鍋(なべ)を囲んでの共同飲食は、家族共同体の統合の象徴であり、鍋から食物を分配する「杓子(しゃくし)」などとよばれる道具を握ることは、家族共同体の女性側の長であることの証明でした。したがって未婚の男女が家族から独立した空間で、調理や飲酒を伴う共同飲食をすることは、新しい家族を作るための婚姻の萌芽、つまり性的交渉の発生を意味しました。そうした交渉をもつことを保障する特殊な屋内空間として、一定年齢層の若者だけが集う「若者宿」などとよばれる独立した場がありました。大昔は男女とも結婚相手を選ぶ対等な権利を持っており、「若者宿」で過ごす時間は、婚姻が社会的に認められるまでの過渡期であるとともに、当事者同士が夫婦として暮らしていけるか否かを判断するための試行期間でもありました。しかし「食物の変遷」で述べられたような諸々の道具の登場、さらに飲食物を商品として生産、提供する生業の発達などにより、性別分業での男性側の領分が拡大する一方、女性側の領分のステイタスを支える価値がゆらいでいきました。また子供を保護下に置きたい家族共同体や、社会秩序を維持したい行政によって、「若者宿」の力が弱められました。こうして男女間の対等な関係がくずれ、近世、近代に至ります。柳田の究極の目的は、現代社会のひずみの原因を歴史的に説明することで解決の糸口を見つけることにあり、性や婚姻というテーマはそのための大きな柱の一つでした。
ただしこの仮説に説得力を持たせるには、飲食、家屋、婚姻儀礼だけでなく、「若者宿」での男女の交渉についても詳しく述べなければならないはずですが、柳田それを避けました。西岡の「筆が止まってしまう」とはそこを指摘したもので、「聟入考」などを読み柳田の考え方の全体を踏まえていなければできない、本質を突く質問でした。だから柳田は喜んだのです。
最後に柳田は「あなたがそこまで気が付いたのなら……」と、西岡に研究の心構えを説きます。それは、今のうちからあわてずに材料を集めて準備し、卒業後、学界に残るにしても就職するにしても、研究を世に発表する際には事前に上司に原稿を見せてよく相談し、認められなければ我慢して待つように、というものでした。これは柳田自身の経験に根差した言葉です。
前半の「材料」の蓄積は、大量のデータの統計から数字を挙げて立証する「体質人類学」に、「一国民俗学」が肩を並べるための必須条件でした。「食物の変遷」や「聟入考」の仮説は決して思いつきではなく、北海道から沖縄まで、杵や団子などテーマに関連する膨大な事例を集めて、古い時代の名残をとどめたものか、新しい時代の要素を取り入れたものか、新旧関係を比較分析し、矛盾のないようつなぎ合わせることで導き出したモデルです。
後半のくだりは柳田の研究人生と密接に関係します。当時までの柳田は、大学などの学術機関には拠点を持たず、農商務省や貴族院書記局の官僚、国際連盟の委員などの仕事のかたわら研究を続けてきました。書記官長時代には上司に無断での調査旅行がもとで更迭され、人生の岐路に立ったこともありました(岡谷公二1985『貴族院書記官長柳田国男』筑摩書房)。昭和5~6年には考古学をはじめとする人類学の関連分野の第一人者を集め、講座シリーズの刊行を企画しますが、実現を急ぐあまり執筆者や出版社との段取りに失敗し、不首尾に終わりました(岡茂雄1974『本屋風情』平凡社)。だからこそ柳田は、研究とは、学界内外の組織の中で経営として手堅く行わなければ、世の中に認められる形で存続できないと痛感していたのです。
西岡と柳田の直接のやりとりはこの一度だけでしたが、柳田の言葉は西岡の心に刻まれました。西岡は後に、性に関わる考古遺物や信仰に関する「性神」研究の書籍を相次いで刊行しますが、その際には柳田の教えを忠実に実践したと語っています。
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