第6回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム

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更新日:2023年8月19日

考古青年の模索(後編)

 このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。

研究者としての第一歩

知られざる先達、高橋正人(たかはしまさんど)  
 昭和7(1932)年の上調布郷土研究会講演での講演を機に、西岡に新たな世界がひらけます。上沼部貝塚の学術的調査を行った人物として講演で取り上げた、高橋正人(たかはしまさんど)本人が聴講に訪れており、二人の間に親交が始まったのです。
 高橋は西岡に、上沼部貝塚をはじめとする遺跡の情報を提供したほか、自身が属する横浜考古学会(関東学院の大学生を中心とする考古学の研究サークル)に西岡を紹介します。これが機縁となって翌年1月、西岡は、同会の会誌『丘の上』に、「汐見台横穴墓群に就いて」を発表します(第4回コラム参照)。これまで西岡の研究発表の場は、主に『田園調布会誌』、『東調布町誌』等の地元情報誌でしたが、ここで初めて同じ学問を志す学生の議論の場に、足を踏み入れることができたのです。

 高橋が西岡に譲ったとみられる「高橋蔵書」印付きの『考古学雑誌』の中には「高橋人類考古学研究所」の印をもつものがあります。「東調布町」の住所が使われていた、昭和3(1928)年4月~昭和7(1932)年9月のものとみられます。学生時代の西岡は自宅に「西岡人類学研究所」の看板を掲げますが、後で述べる通り、これは高橋の研究所を継承したものである可能性があります。
 このように、西岡に大きな影響を与えた高橋正人の生涯については、岡本孝之氏の研究で概要が解明されてはいるものの、多くは謎に包まれていました。しかし今回調査を進めたところ、新たな事実が分かってきました(注釈1)。

 高橋正人は明治32(1899)年、日本のアルミニウム開発研究の草分けで、古河電気工業の理科試験所長を務めた父、高橋本枝と母、淑子の間に、三人兄弟の長男として、東京芝区愛宕町(現、港区愛宕地区)に生まれ育ちました。大学卒業記録には宮城県出身とありますが(『三田評論』334号)、これは本枝の出身地を本籍地としたものとみられます。小学校では神童と呼ばれ、東京府立第一中学校に進学しますが、小中学校通じて体が弱かったといいます。この頃、坪井正五郎の「コロボックル風俗考」(1895-1896『風俗画報』東陽堂)や江見水蔭の考古小説にも親しみましたが、科学全般に興味があり、中学時代後半は化学実験に没頭しました。歴史の成績が非常に悪かったという一面もありました。中学を卒業すると慶應義塾大学医学部に進みます。
 高橋に転機をもたらしたのは、大学在学中の大正12(1923)年9月に発生した、関東大震災でした。一家が住んでいた品川区大井の家は倒壊し、10月、転居先を探して両親と田園調布の売出し地を歩いていたときのこと、高橋は、当時上沼部(かみぬまべ)とよばれた田園調布地区西部の台地上にひろがる、ほぼ未発掘の貝塚を目の当たりにします。現在の上沼部貝塚です。高橋は、坪井や江見の著作に出てくる先住民「コロボックル」が「初めて現実の姿となりて目に見え手に触」れられる形でよみがえってくる思いに打たれ、「一生をこの貝塚附近に永住して、最後の瞬間に至るまで、我が上沼部貝塚の徹底的研究に努めん」と決意します。
 高橋は同月中に、貝塚の発掘を開始します。大学の同級生や、解剖学の望月周三郎(もちづきしゅうざぶろう)ら、教授たちも発掘に協力しました。11月3日には、東京帝国大学理学部人類学教室の教授、鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)を訪ね、成果を報告します。ただちに鳥居の学生、八幡一郎(やわたいちろう)が現地見学に赴き、翌日には同じく学生の山内清男(やまのうちすがお)も、八幡と共に発掘に訪れました。八幡も山内も、後に縄文時代研究の大家となる人物です。同月高橋は、京都帝国大学医学部で人骨研究を進める清野謙次(きよのけんじ)にも、出土人骨と発掘記録を郵送します。清野は「高橋氏の若々しい熱心は大いに賞揚して上げねばならぬ―(中略)―若い熱心家を造る事は将来日本に立派な人類学やら考古学を樹立するに必要なることである」と賛辞を送りました(清野謙次1925『日本原人の研究』岡書院)。調査は翌年1月13日まで28回にわたって行われ、ひとまず完了します。出土遺物は、慶應大医学部解剖学教室の標本室に陳列されました。
 高橋は大正15(1925)年3月に慶應大医学部を卒業し、5月に同医科学研究室助手となって附属病院に勤務します(『三田評論』334号)。この頃結婚し、西岡が出会った昭和7(1932)年当時には3人の息子の父となっていました。考古学・人類学の研究も続け、昭和2(1927)年、神奈川県の日吉村(現、横浜市日吉地区)矢上谷戸貝塚周辺を踏査し、附近の貝塚を発掘していた大山柏に表採した打製石斧を見せています。翌年の大山らによる上沼部貝塚の調査にも参加したはずですが、その記録を載せた『丘の上』4・6号が現存せず、詳細は不明です。昭和4(1929)年10月には日吉の矢上谷戸貝塚周辺を踏査、昭和6(1931)年2月には東京都目黒区の東山貝塚で竪穴住居を発掘、同5月には東京高等学校生徒による埼玉県川口市新郷村東貝塚の発掘に参加しています。三菱鉱業に勤める末弟は、赴任先の北海道小樽市で入手した石器を送ったり、共に日吉周辺の遺跡を散策したりと、特に理解があったようです。

 研究成果の発信や、研究者との交流の機会も模索していました。昭和3~6(1928~1931)年、児童向けの科学雑誌『子供の科学』(誠文堂新光社)にしばしば医学知識の解説を執筆していますが、上沼部貝塚を紹介した「貝塚の発掘」(第8巻第4号 1928)や、自宅周辺の古墳について述べた「古墳物語」(第9巻第4号 1929)など、自身の調査の概報を寄せることもありました。昭和4(1929)年、大山柏が史前学会を立ち上げると、直ちに入会します(『史前学年報』1号)。同6月には横浜考古学研究会に加入して(『丘の上』5号)、調査の報告を次々と寄稿し、昭和8(1933)年には同会から『世界人類考古学者列伝』を刊行します。実物は現存しませんが、『丘の上』10号の広告によると「人類考古学者を網羅した大へん便利な」本だったといいます。
 「高橋人類考古学研究所」は、大正13(1924)年、研究室内の対立で東大を去った鳥居龍蔵が自邸に開いた「鳥居人類学研究所」や、昭和4(1929)年、大山柏が「史前学」を実践するため自邸に設立した「大山史前学研究所」に倣ったものとみられます。当時、後に明石原人の発見で知られる直良信夫(なおらのぶお)の「直良石器時代文化研究所」(大正元(1926)年発足)や、弥生時代研究に巨大な足跡を残す森本六爾(もりもとろくじ)を中心に、青年らが結集した「考古学研究会」(昭和2(1927)年発足)など、考古学・人類学の研究者の間で、大学や国立博物館といった巨大機構から独立した組織を立ち上げる機運がありました。高橋も彼らに続こうと意気込んでいたのです。

 しかし高橋の研究活動は、必ずしも順調とはいえませんでした。学生時代のような本格的な発掘をした形跡はなく、病院勤務の合間の1~2日程度の調査がほとんどでした。『考古学雑誌』など有力な学術誌への投稿もありません。医学方面の専門は耳鼻咽喉科でしたが、慶応大医学部教授、末吉雄治が考案した尿たんぱく測定装置(末吉管)を使って、アケビに含まれ腎臓病に効くとされるアケビンや、卵黄に含まれるレシチンの研究を行った形跡があります(『医学中央雑誌』35巻6号抄録ほか)。
 「丘の上」などに掲載された高橋のエッセイには、研究への情熱や遺物発見の喜びがつづられる一方、調査時の苦悩も記され、高橋の人物像をかいま見ることができます。

 住宅地に変貌していく日吉を踏査した際のこと、造成工事中の作業員に憎悪の眼を向けられたと感じ、自分の「洋服姿」が「癪にさわるらしい」と記します。すれ違った地元農家の女性からは「憎々し気に「パッ」と唾を吐」かれ、「田舎と都会との第一線の―(中略)―愛憎の葛藤を 田舎を廻り歩くたびに感ずる!」と吐露します。

 川口市新郷村東貝塚で東京高等学校科学部考古学会による発掘に参加した際には、「自分の有する性癖」のためすぐには生徒たちに会おうとせず、長時間周辺を散策します。高橋は、調査を指揮する鈴木尚(すずきひさし)(後に人類学者となり、人骨研究の第一人者として『日本人の骨』(1963 岩波書店)を著す)のことを、東京高等学校考古学会を「大いに牛耳っているらしい」生徒として強く意識していたため、気圧されないよう、あらかじめ環境に慣れておこうとしたのでしょう。近くで農作業中の男性に遺跡の聞き取りを試みますが、「この土地から出たものは なるべくよそへ持って行ってもらいたくない」と、「暗に」「非難しているような」目で見られます。なんとか石棒を保管している農家の場所を聞き出して訪ねますが、応対に出た女性は「何も持っていない」の「一点ばり」です。ところが高橋が遺物を買い取るそぶりを見せると、奥にいた女性の父親が「こんなものが出たといわんばかりに」石棒を持って出てきます。遺物を手に入れ現場に向かう自分を、数人の子供が「怪訝(けげん)な顔」で見上げていた、そう高橋は記しています。

 これらの記述自体には、高橋の思い過ごしも含まれている感が否めません。しかし、他者への警戒と強い自負心ゆえに、人と打ち解けられず苦しんでいたという事実は、確かに伝わってきます。

 西岡との親交が始まって数年後、高橋は病に倒れます。昭和10(1935)年5月に慶應の助手を退職していることから(『三田評論』455号)、発病は昭和9年~10年初頭のことと考えられます。翌年には史前学会からも退会し(『史前学年報』9号)、かつて永住を決意した田園調布を離れて三鷹村(現、東京都三鷹市)に転居しています。病はおそらく結核で、転居は家族を感染から守るための自主的な隔離だったと考えられます。長い闘病生活の後、昭和19(1944)年、高橋正人は40代半ばで世を去りました。

 高橋と西岡には、重化学工業系大企業の技術系役員を父にもつこと、震災直後に田園調布に引っ越して生活が一変したこと、科学少年から考古青年へと変貌したこと、歴史の授業が苦手だったことなど、多くの共通点がみられます。しかし同年代の仲間たちを率い、現場監督や教員とも臆せずに渡り合い、地元の老人が語るコンコン様の伝承を面白がって記録する西岡の姿は(第4回コラム参照)、内向的で他者を警戒しがちな高橋とは対照的といえます。そんな二人の交友がどんなものだったか、後年の西岡は高橋についてほとんど語らず、詳細は不明です。
 ただし「西岡人類学研究所」が、奇しくも高橋の病臥した時期にあたる昭和9(1934)年末、初めて歴史上に登場するという事実は(考古学者、大場磐雄の調査ノート「楽石雑筆」12月17日記事)、一つの示唆を与えます。西岡は昭和7年頃から自邸の工作室で発掘資料を保管・公開してはいましたが、まだ「研究室」と呼ぶにとどまり、「研究所」の看板を掲げてはいませんでした。すなわち「西岡人類学研究所」は、高橋が「高橋考古人類学研究所」をたたんで田園調布を去るにあたり、その後を継ぐ存在として誕生した可能性があるのです。思うように成果を上げられないまま孤独と疎外感に耐えてきた高橋は、同じような境遇にいながら、自分にはない陽気で柔軟な活力と社交力、そして健康な体をもつ西岡に、果たせなかった夢を託したのかもしれません。

大東京史蹟展覧会
 講演から半年あまり後の昭和8(1933)年2月22~28日、東京市社会局社会教育課が主催する「大東京史蹟展覧会」が、上野公園内の東京自治会館で開催されました。西岡は東京市からの依頼で、田園調布周辺の貝塚、古墳などから出土した遺物計15点と、下沼部汐見台横穴墓の実測図や古墳の関連写真、遺跡分布地図を出展します。
 展覧会に先立ち西岡は、講演後に追加された知見をもとに、古墳の番号を改訂します(西岡秀雄1933「田園調布の人類考古学上の遺物に関する追記」『田園調布会誌』第6巻第2号)。この時確定した番号は、今日の正式な遺跡名称である「西岡〇号墳」へと引き継がれています。同時に西岡は、「上沼部古墳帯」としてきた遺跡の分布集中範囲の名称を、貝塚など古墳以外の遺跡も含む「多摩川東京南部遺物帯」へと改めました。
 この展覧会は、様々な蒐集家や研究者を中心に、神社仏閣、区役所、図書館、文書館、博物館、企業などが、それぞれ東京市の歴史に関係する文物を持ち寄って展示するというものでした。『大東京史蹟展覧会 展覧品目録』(1933 東京市)によると、出品者数は計103団体、展示品数は計823点に及び、出品者ごとにコーナーを設ける展示構成をとっていました。展覧会は、歴史、地理、考古学関係の学術誌や新聞など、全国的な媒体でも紹介され、出品者には考古学者の和田千吉(わだせんきち)や、森鴎外の末弟で考古学にも造詣がある森潤三郎(もりじゅんざぶろう)も名を連ねていました。会期中には江戸の犬小屋、江戸の古墓、『江戸名所図会』に関する講演、王子田楽と赤塚田遊びの実演も行われ、会は7日間で観覧者数のべ27045名という、大盛況を呈しました(『東京自治会館報』第8号)。ただし展示品の大半は書画、古典籍、地図など江戸時代以降の紙資料で、考古関連資料は、遺跡の写真、図面等を含めても計48点と、全体の6%弱に過ぎません。各種媒体での広報でも、とりあげられたのは珍しい古地図、日本画などで、考古資料には触れられませんでした。それでもこの展覧会は、西岡が田園調布で蓄積してきた調査成果が、著名人に伍して全国的に日の目を見る、大きな一歩だったといえます。
 展覧会から1か月足らずの3月24日、いよいよ西岡は、慶應義塾大学の入学試験を迎えます。

(注釈1)高橋正人の生涯については、高橋が『丘の上』5、7、8、9、10号に寄せた記事のほか、岡本孝之2010「横浜考古学研究会とその会員」『考古論叢 神奈河』第18集 神奈川県考古学会、高橋正彦ほか1972「高橋本枝の家系について」『高橋本枝さんの回想録』草野義一ほか、高橋正人1931「アケビンの一慢性腎臓病患者に於ける実験」『治療薬法』351号 三共、高橋正人1936「友情の盃」『日比谷雀』府立第一中学校一水会、などをもとに執筆しました。

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