更新日:2020年4月24日
「学芸員イチオシの一品!」
大田区立郷土博物館には、開館以来収集してきた多くの資料が保管・展示されています。
ここでは、考古・歴史・民俗という各分野の学芸員がオススメする資料を取り上げて、資料が持つ魅力や見どころについて紹介します。
[注意]資料の画像の二次利用や無断転載は固く禁じます。資料や画像のことにつきましては、大田区立郷土博物館までお問い合わせください。
【考古】都立田園調布高等学校内遺跡 第7号土坑 地層剥離標本(縄文時代前期(約6000年前〜5000年前))
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第7号土坑の地層剥離標本
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天然真珠(径約1.5mm)
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孔雀石製装飾品(長さ約5mm)
写真は、第7号土坑(幅約2.16m、深さ約1.04m)の地層を剥ぎ取った標本です。黄土色の部分は旧石器時代の関東ローム層、黒色の部分は縄文時代に掘られて埋まった穴(土坑)です。縄文時代前期の関山式(せきやましき)土器を伴い、貝類遺体が多量に出土しました。
貝の種類はハマグリとマガキが多く、どれも大ぶりです。この時期は、温暖化が進んで海面が上昇する「縄文海進」がピークを迎えており、当時の水産資源の豊かさがうかがえます。
また、焼けた貝類遺体のほか、天然真珠や孔雀石製装飾品などの珍しい資料も出土しています。この土坑は、単なるゴミ捨て穴ではなく、特別な意味を持ってモノを埋納した、祭りの場だったのかもしれません。
[考古担当:斎藤あや]
【考古】久ヶ原横穴墓群 第48号墓 鉄地銀象嵌 円頭柄頭(古墳時代終末期(7世紀代))
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久ヶ原横穴墓群 48号墓 円頭大刀(全体)
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久ヶ原横穴墓群 48号墓 円頭大刀(柄頭)
久ヶ原横穴墓群 久が原五-33-19〜24地点 第48号墓から出土しました。丸い袋状の柄頭(つかがしら)を付ける、円頭大刀(えんとうのたち)です。
銀色の文様は、鉄の地金に鏨(たがね)で溝を掘り、そこに針金状の銀線を打ち込み、表面を研いで仕上げる、象嵌(ぞうがん)という技法で作られています。渦巻文から放射状に線が伸びるデザインです。
こうした装飾付大刀は、倭王権が管轄する畿内周辺の工房で作られ、各地の首長に授与されたと考えられています。ただし、各地の銀象嵌の文様が多様なことから、各首長が工人と独自に交流して製作した可能性も指摘されています(瀧瀬芳之2019「大刀に施された象嵌について」『飾り大刀』かみつけの里博物館)。
[考古担当:林正之]
【歴史】江戸より九州五嶋まで道中図巻[部分](貞享4(1687)年写)
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冒頭部分
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「ろくがうの橋」拡大部分
江戸から長崎までを描いた彩色の道中絵巻です。江戸から大坂までは東海道を中心とする陸路を、以降は海路を中心に描き、宿場名や主要寺社、河川名、宿場間の距離などが書き込まれています。
六郷−川崎間には木造橋の描写があり、「ろくがうの橋、百九間」の記載が見えます。この木橋は「六郷大橋」と呼ばれ、長さは109間≒198mで、江戸初期にはすでに架橋されていました。多摩川の氾濫などにより、橋はしばしば流失し、その都度架け替えられましたが、貞享5(1688)年7月の大洪水で流出して以降は渡船となります。明治7(1874)年に左内橋が架けられるまでの約200年間は舟で川を越える時代が続くのです。そのため、六郷大橋を描写する本絵巻の存在は貴重といえます。
[歴史担当:築地貴久]
【歴史】高橋松亭「都南八景の内 馬込」(大正11(1922)年4月)
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都南八景の内 馬込
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現在のバス通り
本作品には、大森方面から臼田坂をのぼり長遠寺へと続く道が描かれ、当時馬込が田畑に囲まれた静かな農村であったことがわかります。作品の画面中央に小さく見えるのは、馬込八幡神社の鳥居で、桜が咲くその奥には森が広がっています。向かいの建物は、明治11(1878)年に開校した馬込尋常小学校(現馬込小学校)と馬込村役場です。この道は、江戸時代の村絵図に「村ナカ往来道」と記載があることから、馬込村の村人にとって主要な生活道であったことが推測されます。
高橋松亭は、大田区の市野倉(現在の大田区中央付近)、矢口などに居住したとされ、区内の風景も数多く描いています。現在の馬込は住宅街となっていますが、長遠寺とそれに通じるカーブの道の存在は、高橋松亭が描いた構図と変わるところはありません。
[歴史担当:真坂オリエ]
【民俗】馬込根古屋講中の庚申本尊
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馬込根古屋講中の庚申本尊(肉筆)
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馬込根古屋講中の庚申本尊(木版刷)
庚申講では、60日に一度の庚申の日の夜、講の人々は当番の家に集まって、読経や共食を行い、夜通し過ごす習慣がありました。これは、人の体内にいる三尸(さんし)の虫という邪気が庚申の日の夜に昇天し、人の寿命を決める天帝に罪を伝えるという道教の思想が影響しているため、人々は命を守るために夜を徹して行事を催しました。
この資料は、南馬込5丁目付近の根古屋(ねごや)地区で行われた庚申講の本尊で、2幅の青面金剛の掛軸が使われました。左の資料は肉筆で書いたもので、大和絵風の上品な筆致で描かれています。右の資料は前掲の青面金剛とは異なり、二眼の表情やいかり肩などの図像が特徴的です。同地区では、昭和43(1968)年頃まで13軒が庚申講の活動をしました。
[民俗担当:乾賢太郎]
【民俗】穴大工道具
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穴大工道具
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穴屋鑿(部分)
昭和期に蒲田に居住していた穴大工の道具(左から玄翁(げんのう)、鑿(のみ)各種、手皮)です。穴大工は建築部材の貫穴やホゾ穴を専門に彫る大工で、通称は「穴屋」といいます。明治以降、区画整理や開発で建設ラッシュとなった東京では、大工仕事の分業化が進みました。穴大工はこのような大都市特有の職人でした。
穴大工が使う鑿、「穴屋鑿」の刃には、山の字型の「割鋼(わりはがね)」という特徴があります。一般の鑿は、軟らかい地金(じがね)と硬い鋼を重ねて作りますが、地金の中を割るように鋼を加えることで曲りにくい刃となり、穴彫りの作業に適します。
大工道具の電動化が進むにつれ穴大工職人は姿を消し、穴屋鑿も現在では珍しいものとなりました。本資料は都市の近代化の様相を映し出す資料として大変貴重なものです。
[民俗担当:小室綾]
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